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人と違わないとダメ? 京大社会学徒が「押し付けの多様性」を問う

2017/08/23 23:03 公開
profile小保内太紀

「多様性が大事!」とみんな言う。でも無批判にそれを言うことで、実は逆に窮屈になってない?
社会学を研究しながら芸人もしてる「カフカ」の小保内が、「多様性」に潜む闇を暴きます。

はじめまして。京都大学大学院修士二回の小保内太紀と申します。おぼないたいきと読みます。大学院で社会学について研究するかたわら、カフカというコンビを組んでお笑いライブをしています。そちらの話題ものちほど。

先日、こんなツイートが話題になっていました。

約2.5万RTされており、多くの人の共感を呼んだようです。このツイート、元ネタはサンロクマルの酒井先生の記事から来ています。



巷にあふれる「多様性」への思慮浅い礼賛に対して異議を唱えつつ、同時に多様性の意義を主張するスタンスにとても共感・納得しました。

今や「多様性を尊重すべき」というテーゼは、国策において、教育現場において、企業理念において、日常生活の些細な場面において、いたるところで出現する教説となっています。しかし、その意味するところであるとか、なぜ多様性が重要であるか、あるいは多様性をクローズアップすることが何を意味として付随するかなどについては、いまひとつ省みられることがないようにも思われます。

ゆえに日頃より、筆者は「多様性」について今一度熟考し言語化する必要を感じていました。先述のツイートが目に留まったのも何かの好機と思い、今回は「多様性」という概念について考えてみたいと思います。

「多様性」が意味していないこと

僕たちの身の回りで喧伝されるような「多様性」は、「私たちは他者を受け入れるべきだ」というテーゼを生みます。そしてそれはひるがえって、「私たちは他者に受け入れられるべきであり、やりたいことをやり、ありたいようにあるべきだ」というテーゼを生みます。

そして最近、この反転をもとに、「やりたいことをやるべき」転じて「やりたいことをやらねばならない」という価値観が若者の間で喧伝されるのを目に、耳にします。

ただ、ここには落とし穴があります。

集団としての、社会としての多様化というのは、その個々の成員に微分したときには、それぞれの先鋭化を意味します。一人一人が「ふつう」であってはいけない、個性を持たねばならない、集団の成員が「特徴」と「キャラ」を持った、「濃い私たち」でなければならない、そんなことを要求するわけです。

つまり、そこでは「凡人でいる権利」や「他者と交わらない権利」が圧殺されるのです。何かしら特徴を持たねばならない。自我を、自己を、コンテンツを持たねばならない。そしてそれら見せつけ合い、認め合う自己開示ゲームに参加しなければならない。その強制力が働くのです。

「多様性」を取り巻く二重の疎外

このとき、「多様性」に関連して、「二重の疎外」が発生しています。「二重の疎外」とは、マルクスなどに着想を得た見田宗介が導入した、社会学の主要概念です。筆者の理解に即してかみ砕くならば、「○○以外の可能性がなくなった状態で、○○をも満たすことができなくなる」ことを指します。

前半の「○○以外の可能性がなくなる」が第一の疎外であり、「○○への疎外」と言いうるものです。後半の「○○をも満たすことができなくなる」は第二の疎外であり、「○○からの疎外」と言いうるものです。

すなわち、「多様性」を礼賛する態度には、ときに「多様性への疎外」を引き起こし、そこに「多様性からの疎外」が二重に覆いかぶさるとき、実は不自由で生きづらい世の中を露呈しうるのです。
こうして、画一的な、支配的な、「自由」のイメージからはかけ離れた「多様性」ワールドが立ち現れるのです。

「多様性のある社会を作ろう」というのは、何も誰もが等しくやりたいことを好きなだけやるような世の中、全員がやりたいことを見つけねばならぬ世の中を目指そうということを意味していません。そんな世界が到来したら、開かれた自由の中の窮屈で僕は窒息死します。

前提としての「多態性」「複数性」

もちろん、僕はこの記事で、自由なんて認められる必要はない、全ての人間が画一的にロボットとして生きればいい、なんてことが言いたいわけではありません。僕はむしろ、「多様性」が真に認められる世の中を切実に希求しています。

そこでヒントになるのは、「多態性」ではないかと僕は思うのです。

G・H・ミードという社会心理学者による自己論を紐解くと、他者や社会とのかかわりにおいて、自己は二つの態を持ちます。すなわち、他者に働きかけるI(主我)と、他者からの働きかけを受け取るme(客我)とに分類されます。ミードによれば、meの作用によって他者の振る舞いを内面化し、Iの作用によって他者に、あるいは自分の中の他者に働きかけながら、人間は自我を構築していきます。

さて、「多様性」の構成要素である「他を受け入れる」「他に受け入られる」は、その「態」において異なっています。

すなわち、「私が他を受け入れる」際には、自ら主語として他を受け入れる「能動態」であるのに対して、「他に受け入れられる」=「他が私を受け入れる」際には、私は他が受け入れる目的語であり、「受動態」です。

態にバリエーションがあるということは、日本語文法的な意味以上のものを示唆します。すなわち、社会生活を営む人間にはそれ自体の中に複数性があらかじめあるのです。複数の自己を場面に応じて使い分けること、ここに自己の多態性を見て取ることができます。

他者と共同して社会的に生きる際、人間には前提としての複数性が仕込まれています。複数の自己を分節して時に応じて使い分けつつ、また、人格的には高度に調和と統合を保ちつつ生きていくありさま、それこそが、人間の意識が社会生活の中でこなしている営みです。

そもそも、「自分」の中にもたくさんの「自分」がいるはずなのです。他者を受け入れたり、他者に受け入れられたりするためには、それぞれの人間一人一人の多態性、複数性を認める・認められる必要があるのです。

ゆえに、「多様性のある社会」を作るべく、「他者を容認しよう」というメッセージには、それはすなわち「他者の複数性を、自己の複数性をもって容認しよう」というメッセージが含まれているということなります。

「キャラ」や「コンテンツ」といった、いかにも画一的に、他者に見せるために作り上げた看板を晒し合うゲーム-もっとも、巷ではそれが「多様性」とされたりもするのですが-は、何ら「多様性」を担保するものではないのです。

「多様性」が意味すること

自己の複数性を前提としていない「多様性」は、単純な自我しか持たない動物化されたキャラクターにのみ通用するものです。

人間にはいろいろな気分、ムード、場に応じての自己の使い分けがあってしかるべきなのですから、「多様性の担保された世の中」にも、そういったゆとりがあってしかるべきです。

「相手のことを認めるべきだ」と言われても、認められないときもあります。「やりたいことをやって生きていく」と言っても、やりたいことができない場面もあります。場面に応じて自己の複数性をマイナーチェンジしていく、その中で自分の欲求が満たされる場が、どこかのチャンネルには存在している。そのような社会環境を作ることこそが、真に多様性を担保しうる社会であるように思います。

いろいろな場面の中で、複数の自己を使い分けて、良いものは良い、ダメなものはダメ、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、我慢するべきなら我慢、解放できる場なら解放。そしてどこかでピタッと自分自身がハマる場と瞬間を見つけて、そこにカタルシスが生まれるような、そんな経験を誰もができたならば、その社会には理想的な意味での多様性があるのではないかと、僕は信ずるのですが。皆さんはどうでしょう。

ひとネタご紹介 カフカの漫才「虚無」

多様性の前提となる「個」の豊かさはどこにあるのでしょう。